IRYOΣ創設の理念

カオス・複雑系の視点から医療の転換を図る
−「IRYOΣ(イリオス)」構築の創案−

2026.04.01 田原 孝 日月 裕

目次

 カオス理論は、複雑で非線形なシステムにおける振る舞いを扱う学問であり、患者と病気の関係を新たな視点で捉える可能性を秘めている。カオス理論の視点は、医療施設における病気や治療プロセスの複雑さを理解し、新たなアプローチを導入する上で重要な示唆を与える。また、病院という空間は、患者、医療者、家族、さらには技術や環境が相互に影響し合う動的なシステムとして機能する。そのことで病院は、単に治療を提供する場ではなく、健康の回復や病気との共生を目指して絶えず変化と適応を繰り返す「複雑系」として捉えることができる。
 このようなカオス・複雑系理論の枠組みを背景に、ここでは、従来の「医療」や「Medical」を超え、それとは異なるヘルスケアを新たに「IRYOΣ」と名付け、その構築を意図している。

 医療の問題に入る前に、簡単に複雑系の視点について述べておく。(詳しくはこのホームページの研究記事内、「医療における複雑系」を参照されたい)
 医学・医療は複雑系である。複雑系と言っても、医療に関係する複雑系には色々なレベルが存在する(階層構造)。実は医療自体に多くのレベルが存在する。分子レベル、細胞レベル、組織レベルの医療。されにその上には体全体のレベル、さらに集団や社会としてのレベルが存在する。これら、医学・医療のレベルに合わせてそれぞれの複雑系が存在する。

複雑系の階層構造

 生理学、細胞のレベルでは微分方程式などの力学系的な表現が可能である。そのため、そこに現れる複雑系にはカオス力学系としての性質や表現が見られる。心拍の揺らぎ、指先の血流変動を表す指尖脈波(指尖容積脈波)の波形の揺らぎの中に見られるカオスなどがその代表である。そのほかにも、目の瞳孔径の揺らぎ、心音波形などにもカオス変動が見られる。
 集団や社会医学が問題となる局面ではベキ分布を中心とした統計的な性質と統計的は表現による複雑系が存在する。病名頻度や入院日数においては裾野の長い分布が見られる。これらは、集団や社会医学における複雑系の表現である。
 従来、医学概論など「医学とは何か」を問題とする分野では、医療の不確実性というものが問題となっていた。治療、診断が確実ではなく医療過誤が起こるのも、医療の不確実性がその背景に有るためであると考えられている。医療が不確実である原因については、医師のミス、医療システムの不具合なども考えられるが医療そのものに潜む不確実性もあると考える。
 元々、医療が確実であるという信念は科学の確実性に由来する。しかし、科学(主に物理)の確実性の背景にはニュートン力学における機械論的決定論的世界観がある。これは、全体を単純なものに分解して考える要素還元主義とニュートン力学における決定論的世界観が結び付いた考えである。ニュートン力学における決定論的世界観とは、「全ての運動体は、その運動体のある時刻における位置と速度を決めれば将来が一義的に決まる」という考えである。ただし、最初の位置と速度に関しては、量子論における不確定性原理にまで戻らなくても、測定精度の点からも、それらを正確に決めることは本当は出来ない。それでも、位置と速度が近ければ、その後の経路も近いに違いないという信念が背景にあったのである。
 しかし、この決定論的世界観はカオス理論によって覆された。最初の時刻における位置と速度における違いがどれほど小さくても、時間と共にその違いが指数関数的に大きくなっていく場合があるという発見がカオス理論である。この理論によって、決定論的世界観については原理的に間違っているということになった。しかし、軌道の予測は出来なくなったが、一方でその軌道には全体として規則性があるということも同時に発見されている。それが、複雑なアトラクターの概念である。従来、力学系の安定軌道は一点と周期軌道だけであった。それに対してカオス理論において周期軌道よりはるかに複雑であるが安定な軌道(アトラクター)が存在することが示された。このアトラクターの性質は固定点や周期軌道と異なり統計的な性質で表す必要がある。
 カオス理論は少ない数の粒子(正確には自由度)の運動における複雑な軌道の話である。この小さな自由度を大きな自由度(多数の粒子)に拡張した概念が複雑系であるともいえる。大きな自由度においても、力学系が安定な規則性を生み出す。もっと、一般に多数の要素が互いに相互作用するシステムにおいて、互いの相互作用によってある種のランダムでない性質(規則性、規律)が生まれてくる。このような相互作用によって全体としての性質が生み出される(創発)系を複雑系と呼んでいる。

 このカオス・複雑系の考えから得られる事実は、1)系の動きを完全に予測することは出来ない、2) 系の要素間の相互作用により新しい秩序が創発されることがある、の2点である。ここで、新しい秩序が創発されたとしても、それが有益か、価値があるかどうかの価値判断とは別の問題である。また、創発が何時起こるか、何時壊れるかについても予測は出来ない。このような視点が複雑系の特質である。

 現在の医療で進歩したのは、医療技術とその背景をなす学問であり、医学そのものではないのではないか。そこでは、以下の特質をもつ医療が展開されている。

1.分業化と画一化の限界

  • 医療は細分化された専門分野ごとに運営され、患者の体全体や生活背景を包括的に見る視点が希薄になっている。
  • 標準化された治療プロトコルが重視される一方で、個々の患者に特化した柔軟な対応が難しい状況にある。

2.患者中心の医療が名ばかりになっている現実

  • 「患者中心医療」という理念は広がっているものの、実際には患者が受動的な立場に置かれ医療者主導で治療が進むケースがほとんどであり、患者の声やニーズがシステム内で十分に反映されない。

3.医療システムの硬直

  • 病院や医療施設の運営は、予算や人員、規制の制約に縛られ、変化に柔軟に対応する余地が乏しい。
  • イノベーションや新しい取り組みが進みにくい環境である。

4.医療者の負担と限界

  • 医療従事者は過密なスケジュールや膨大な書類作業に追われ、患者一人ひとりに十分な時間を割くことが難しい現実である。
  • 精神的なストレスやバーンアウトが医療の質に大きな影響を与えている。

5.現在の医療哲学: 還元主義的アプローチ

 現在の医療は還元主義に基づいている。このアプローチでは、病気を特定の原因(ウイルス、遺伝的異常、臓器の不具合など)に還元して理解し、治療することを目指す。この哲学は、科学技術の発展に支えられ以下の目標を生み生み出す。

  • 分業化と専門性の協調: 医療は専門領域ごとに分業され、各専門家が特定の問題を診断・治療する。
  • 病気の制御や克服が目標: 病気は「障害」や「敵」として捉えられ、それを排除することが医療の目的とされる。
  • 線形的因果関係への依存: 病気の原因と結果を明確に結びつけ、予測可能な治療方法を設計することが主流である。

 これらのアプローチは、感染症や急性疾患の治療においては有効であり、近代医療の成功を支えている。しかし、慢性疾患や精神疾患、患者の生活全体を視野に入れる必要がある状況では多くの限界が指摘されている。

 一方、現在の医療が直面する上記の課題に対し、カオス・複雑系の視点にもとづく「IRYOΣ」では、還元主義的医療とは異なる次のような新しいアプローチを行う。

1.全体性と相互作用の重視

 病気や健康は、患者の身体的、心理的、社会的要因が複雑に絡み合った結果と見なし、医療施設もまた、患者、医療者、技術、社会環境が動的に相互作用する複雑なシステムととらえる。
従来の医療との違い
還元主義的医療が「部分」を重視するのに対し、複雑系の視点では、要素間の相互作用とそれから創発してくる全体の構造を重視する。

2.予測困難性と適応力への着目

 病気の進行や患者の治療反応は非線形で予測が困難であるため、柔軟な対応が求められる。医療は「静的な解決」ではなく、変化し続けるシステムの「動的な調整」を目指す。     
従来の医療との違い
還元主義的医療が固定化された診断や治療プロトコルを重視するのに対し、複雑系の視点では患者や状況に応じた柔軟な対応を重要と位置付ける。

3.患者の主体性と創発的変化の重視

 患者は単なる受け手ではなく、医療システムの中で能動的な役割を果たす存在として位置づける。患者自身の経験や気づき、医療者との相互作用を通じて、新たな治療アプローチや生活改善が創発されると考える。
従来の医療との違い 
還元主義的医療が患者を「受動的な対象」として扱う傾向があるのに対し、複雑系の視点では患者の「能動性」や「創造性」を引き出すことが重視される。

4.医療施設と社会の相互関係

 医療施設は単なる治療の場ではなく、地域や社会全体と連携し、健康の促進や新たな価値を生み出す役割を担うと位置付ける。病院内での変化は社会的変化とも連動し、逆もまた然りである、と考える。             
従来の医療との違い 
還元主義的医療が施設内の機能に集中するのに対し、複雑系の視点では医療施設と社会全体のつながりやそれらの間の相互作用が重視される。

 以上を踏まえて、以下のⅡ-1〜Ⅱ-3の項で、個人や病院・医療施設、そして両者にとってのカオス・複雑系、さらにカオス・複雑系の視点がもたらす医療の革新と転換について説明する。

Ⅱ-1 個人の病と環境の相互作用

 生体では、多数の生理的プロセスが同時に進行し、それらが相互作用することで、全体の健康状態が決定される。このような生理プロセスは、一見すると安定で規則的な変動を示すと考えるかもしれないが、実際は健康な心身はカオス的で一見不規則な振る舞いを示す。そして不健康や病期になるとそのカオス的な挙動が失われ、機械的な規則的な振る舞いを示すようになる。例えば、心拍や脳波等々においては、健康な状態では揺らぎが見られる。そして、心不全など病的な状態になると揺らぎがなくなることが実証されている。この揺らぎはカオスによる安定な状態を表していると考えられ、揺らぎの無い状態は、異常なフィードバックループに体が陥ったことを示している。このような揺らぎがある状態もしくはカオス状態が正常であるという視点から病気を再考することで、医療の現場に新しいアプローチが提供できる。
 患者が感じる症状や生活の質の変化は、単なる生物学的な現象ではなく、その人の身体、心、そして環境との複雑な相互作用の産物である。例えば、慢性疾患を抱える患者は、小さなきっかけで突然症状が悪化することもあれば、予期せずに良好な日々が訪れることもある。これらの変化は、医療者にとっても予測が難しいもので、患者本人にとっては生活全体に深刻な影響を及ぼす。この不確実性の中で、患者は日々の生活を調整し、身体的・精神的なバランスを見つけ出そうと努めているのである。
 カオス・複雑系理論は、このような日常の変動を理解し、支援するための新しい道筋を示すために利用可能であると考えている。例えば、心電図、脈波、脳波などの患者のデータ―をカオス的な視点で解析することにより、その人特有の「健康のリズム」や「症状の波」を把握することが可能になるかもしれない。これにより、医療者は患者の症状の変化をより有効に把握し、より適切なタイミングで介入できるようになる。
 また、本来の健康は「自らの健康は自らが管理する」という「健康の自己管理」という考えがある(「健康の自己管理モデル」)。このような考えに対しても、データのカオス解析が利用できる。例えば、リアルタイムで自身のデータのカオス解析を行うことによりストレスや疲労がどのように影響しているかを理解し、生活習慣の改善やセルフケアの工夫を行うことができる。このような取り組みは、患者が自分自身を「病気と戦う存在」ではなく、「複雑な生命システムである」と理解し、不調や不健康、病気も共に歩む存在として捉え直す一歩となるであろう。
 この個々の患者の視点を重視するアプローチは、医療の人間的側面を強化するだけでなく、患者自身の力を引き出す可能性も秘めている。カオス理論を応用することで、患者一人ひとりの経験の深さと多様性を尊重しながら、より共感的で包括的な医療を実現できることにつながると考えている。
 これは、次のような考えに基づいている。従来の医療や健康観では、病気は克服すべき「敵」として捉えられることが一般的である。しかし、病気は単なる障害ではなく、個人の成長や変容を促す「契機」として捉える考えもあり得る。
 このような、個人の成長や変容を起こす要因を以下に記した。

① 病気を「変容のトリガー」として捉える

 病気に直面することで、患者はこれまでの生活の在り方や価値観に疑問を抱き、自分自身を深く見つめ直す機会を得ることはよくある。例えば、慢性疾患を抱えた患者が、これまでの過度な労働やストレスの多い生活を見直し、より持続可能なライフスタイルを模索することは、新たな秩序を生み出す動的なプロセスといえるであろう。
 病気という出来事が患者の人生に新たな方向性を与える場合、その影響は微細なきっかけに端を発しても、患者全体の人生に大きな転換をもたらす可能性がある。このプロセスを通じて、患者は自己の潜在能力や内なる強さを発見し、病気を契機にして精神的・社会的な成長を遂げることができるのである。
 カオス・複雑系においては、小さな変動をきっかけとして、新たな安定状態に移行する場合がある。このことと上記のような変容は似ているが、どのような条件でこのような変化が起きるかどうかは現在の所分かってはいない。しかし、そのような変容が起こりうるという事実を認めることがカオス・複雑系の視点である。

② 自己の再構築と新たな対応

 患者が病気を通じて成長する場合がある。例えば、がん治療を経た患者が、自分の体調や感情の微妙な変化に敏感になり、より適切な健康管理ができるようになることは、新しい適応的なパターンの形成と捉えられる。また、患者が病気を共有するコミュニティと繋がり、他者との相互作用を通じて新たな意味や目的を見出すこともある。
 このような過程では、患者は病気を「受け入れる」だけでなく、それを通じて人生の新たなステージを切り開く力を得ることにつながる。

病気を通じて生まれる創造性と共感

 病気に直面することで、多くの患者は他者への共感や新たな価値観を見出すことがある。病気を経験した患者が、その体験をもとに新しい活動やプロジェクトを始めたり、他者を支援するための役割を担うようになったりする例は少なくない。これにより、患者自身だけでなく、周囲の人々やコミュニティ全体が影響を受け、新たなネットワークやつながりが形成される可能性がある。

 以上のような、患者と病気、患者と他者との相互作用に基づく変化や新しい秩序の形成は、カオス・複雑系に見られる相互作用による新しい秩序の形成や創発の現象とよく似ている。このことは、複雑系の考え方や方法が病気、環境、患者の相互作用の理解に利用できることを示している。
 日月裕氏は、自らの臨床経験から次のように述べている。これは、ペインクリニックにおいて言われている「全人的苦痛」や「全人的治療」を言われている概念と同じように思われる。痛みの治療はある時期から原因治療を放棄して、全人的治療という方針で行われている。痛みというのは、原因治療の方法では対処できないことが早くから認識されており、痛みというのはまさに複雑系的概念である(研究記事「医療における複雑系」内の4章 4 医療知識ネットワークと病名分布 内の痛みの説明 を参照)。

Ⅱ-2 医療機関におけるカオス・複雑系の視点

研究記事「医療における複雑系」内の4章 5 医療は複雑系である を参照)
 カオス理論の視点は、医療施設における病気や治療プロセスの複雑さを理解し、新たなアプローチを導入する上で重要な示唆を与える。病院という空間は、患者、医療者、家族、さらには技術や環境が相互に影響し合う動的なシステムとして機能していおり、単に治療を提供する場ではなく、健康の回復や病気との共生を目指して絶えず変化と適応を繰り返す「複雑系」としてとらえることができる。

① 病院のダイナミクスとカオス

 病院内の運営や治療プロセスは、一見すると秩序立っているように見えるものの、実際には多くの要因が絡み合い、不確実性が常に存在している。緊急時の患者の受け入れ、医療スタッフ間のコミュニケーション、患者の治療反応の個別性、さらには病院全体のリソース管理など、これらは全て複雑に相互作用しており、このような複雑なシステムは、しばしばカオス的な振る舞いを示し、予測が困難な状況を生み出している。
 例えば、新型感染症が広がる中で、病院は急激な患者数の増加や医療リソースの不足といった危機に直面する。このような状況では、通常のマニュアル化された対応だけでは不十分であり、現場での迅速な意思決定や柔軟な適応が求められる。
 予測不可能性は複雑系の大きな特徴である。複雑系の理論は予測不可能性を指摘するが、その解決法は示さない。カオス理論はこのような予測不可能性を除くことは出来ないと述べている。しかし、予測不可能性の存在を認識することが、病院運営においての第一歩である。

② 医療における病気のカオス的側面

 病気そのものも、個別の患者において複雑で予測不可能な進行を示すことが少なくない。
 例えば、がんの進行や慢性疾患の症状の変動は、個々の患者ごとに異なり、単純な因果関係では説明できないことがほとんどである。カオス・複雑系理論の枠組みでは、こうした現象を「非線形なプロセス」として理解し、治療の個別化に役立てることが可能である。
 病院という施設は、これらの複雑性を抱えながらも、患者一人ひとりに適した治療を提供する場としての役割を果たすことが本来の目的である。治療の個別化には、患者の生体リズムや心理的状態、さらには社会的背景までを考慮した動的なアプローチが求められる。この点で、カオス・複雑系理論を用いた解析は、患者個々人に特化した治療計画の立案や、病気の有り様をより深く理解する手助けとなると考えられる。

③ 病院と創発的医療

 複雑系における「創発」の概念は、病院という空間でも応用可能である。患者、医療者、家族の相互作用を通じて、新たな治療方法やケアの形態が生まれることがある。例えば、患者が病気を共有するグループセッションに参加することで、治療へのモチベーションが高まり、回復が促進されるといった現象は、創発的なダイナミクスの一例である。
 また、病院内での部門間の連携や、患者の声を取り入れた医療改革のプロセスも創発の一形態といえる。

Ⅱ-3 個人と制度、ケアの往還的理解

 カオス・複雑系理論の視点は、個人の病気体験と医療施設全体の機能を統合的に理解するための新しい枠組みを提供する。患者一人ひとりの体験は、身体的・心理的プロセスが複雑に絡み合い、個別性を持つ「小さなカオス」として現れる。一方、病院や医療施設は、患者、医療者、技術、社会的要因が相互作用する「大きな複雑系」として機能する。それにもとづく、病院・医療施設のあり方を以下に提案したい。

① 個人のカオスと病院の複雑系の相互作用

 病気を抱える患者は、症状の予測困難性や生活の変化に直面し、自分自身の健康状態を動的に調整しながら生きている。
 例えば、心拍変動やストレスレベルの変化、あるいは治療に対する反応などは、個人の生理的システムのカオス的な特性を示す。一方で、病院はそのような個々の患者の多様なニーズを受け入れ、治療やケアを提供する場としての役割を果たそうとする。この過程で、患者と病院との間には、相互に影響を与え合うダイナミクスが生ずる。これは、患者からのフィードバックやケアのニーズが、病院全体の運営方針や医療システムに影響を与え、新しいケアモデルやサービスの創発を促すことにつながる。これにより、患者の個別性と施設全体の複雑性が連動し、新たな秩序が形成されるのである。

② カオス的な「揺らぎ」が生む革新

 上記の個人と施設の間のダイナミクスは、複雑系の「揺らぎ」が新たな秩序を生むプロセスに類似している。患者の体験や病状の変化が病院内のケアプロセスに影響を与える一方で、病院側の新しい治療法や技術の導入が患者の生活や健康のダイナミクスに影響を及ぼす。これらのプロセスは、単一の視点では捉えきれない相互作用の連鎖を生み出し、医療の現場に創発的な変化をもたらす。
 例えば、長野県佐久市の佐久総合病院でのリハビリプログラムが患者の生活の質を改善することに成功した例である。

③ システムの統合と未来の医療

 このように、個人と施設の視点を結びつけることで、カオス・複雑系の視点は、患者中心の医療とシステム全体の効率性を同時に実現する可能性を秘めている。患者個人のカオス的な体験を理解し、それを施設全体の複雑系の中で活かすことで、医療は個別化と包括性を両立させた新たなステージに進化できると考えている。
 このようなアプローチは、単に病気を克服するためだけではなく、個人と社会全体が互いに成長し合う医療の未来像を描くための重要な基盤となるのである。

 カオス・複雑系の視点から現在の医療を再考し、「IROU」のを目指す際、現在の医療の課題に対する解決策を提示すると同時に、医療の未来に向けた方向を提示したい。

① 医療の目的の再定義

 病気を「克服する」ことだけでなく、患者が病気を通じて成長し、自己実現を果たすことを目標とする。

② システム全体の柔軟性と学習能力

 病院や医療者が患者や環境の変化に応じて適応し、学び続ける柔軟性を持つこと。

③ 患者中心かつシステム視点の統合

 個々の患者のニーズに応じつつ、それを医療施設全体のシステムに反映させる双方向の連携を強化する。

④ 創発的な医療の実現

 患者、医療者、施設が共に新たな価値を創出し、医療そのものが進化するプロセスを設計する。

 次に、カオス・複雑系の視点で現代医療を超えて「IRYOΣ」を目指す際、以下の3点が特に強調される。

① 固定的な「正解」を探すのではなく、動的な「バランス」を探る

 現在の医療は「唯一の正しい解決策」を追求しがちであるが、カオス・複雑系の視点ではシステム全体が変化に対応し続けることが重要視される。

② 個別性を活かした全体最適化

 個々の患者のニーズを尊重しながら、それを全体の医療システムに取り込むことで、医療の質と効率を同時に向上させる。

③ 医療の「成長型モデル」への移行

 病気を克服するだけでなく、患者、医療者、システム全体が学び合い、成長していくプロセスを重視する医療哲学を構築する。

 以上をふまえて、カオス・複雑系の視点による「IRYOΣ」は次のような新しい道を示す。

① システム全体の柔軟性の向上

 現在の医療はしばしば固定化されたルールやプロセスに頼っているが、カオス・複雑系の視点では「適応可能なシステム」が鍵とる。
 具体的な例は、速やかに 病院内で情報共有を行い、患者の変化や新たなニーズに迅速に対応できる仕組みを構築する。この効果は、柔軟性の向上により、治療効果の向上や医療者の負担軽減が期待されることである。

② 患者の主体性を引き出す環境の整備

 カオス・複雑系の視点では、患者をシステムの一部として積極的に取り込み、その役割を強化することが重要である。具体的な例は、 患者自身が健康データを管理し、医療者と協力して治療計画を立てる「共同意思決定」モデルの推進である。この効果は、 患者の治療への積極的な参加が、治療効果や生活の質の向上につながることである。

③ 医療施設間および地域との相互作用の強化

 病院単体ではなく、地域社会全体と連携した医療モデルを導入することで、複雑系としての医療システム全体を強化する。具体的な例は、 病院、診療所、地域コミュニティが、それぞれが本来必要とする情報を再検討し共有し、連携してケアを提供する、例えばネットワーク型の医療を構築することもひとつの例である。この効果は、 地域ごとの健康課題に対応しやすくなり、患者の移動負担も軽減されることである。

④ 医療者の自己組織化能力の支援

 カオス・複雑系の視点では、医療者自身のチームやシステムが「自己組織化」する力を持つことが重要である。具体的な例は、 医療者間のコミュニケーションや意見交換を活性化し、創発的な解決策が生まれる環境を整備することである。 この効果は、医療者のストレス軽減やチーム全体のパフォーマンス向上につながる。

⑤ 近似としての要素還元的な線形手法の利用

 医療の本質はカオス・複雑系である。医療の質、病院経営、およびそれらの関係を検討する際、医療の根底に存在する非線形性、カオス・複雑系としての本質的な性質を避けては議論できない。このカオス・複雑系としての医療の特質は、病院経営、医療の質、病院経営、およびそれらの関係を規定する最大の要件である。
 この点を意識した上で、現状の医療分野では、暫定的、かつ限定的に、あくまで近似として、要素還元的な線形的手法を用いていることを理解し、さらに、包括的な考察には非線形的手法を援用することが大前提である。これは従来の便宜主義的な単純思考で医療の問題を処理できれば良いとする姿勢や、そこから派生する様々な欠陥や短所を克服する契機になるに違いない。

(文責: 田原孝)

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